着信があるんじゃないかと思うと、
おちおち映画にも行けない。
どうしたものか。
期待してはいけない。
自分の人生に期待してはいけない。
他人の行為に期待してはいけない。

(「元気のつなぎ融資」が必要)
火のないところに何とやら的な。
要求されてもいないのに自ら大学名を名乗るのって
大体「熟成」なんだよね。
対個人にしても全体質問にしても。
イメージ通り、噂通りで本当に面白い。
今日は連発で発動したから吹きそうになった。
(ついでに言うと、今日は隣の人がずっと寝てたのも面白かった)
名前やOB会(実は言うほど強くないらしい)に寄っかかっているんだろうか。
「独立自尊」も何もあったものではない。

先輩によるありがたきES添削。
なかなかうまく書けないものだ。
更に言えば、就活生同士で見せ合うことの限界を感じた。

東京駅八重洲方面に行く際に、
丸の内線の東京駅から長い連絡通路を使うくらいなら、
京橋駅から歩いた方が楽だということがわかった。
少し前からポータブルMDプレイヤーの調子が悪く、
日常生活に少なからぬ影響を与えている。
そろそろ潮時なのかもしれない。
しかし問題があって、
つまり今までのMDをどうやって変換するかなのだが、
デジタルで移すとなるとかなりお金がかかるようだし、
アナログで移すとなると音質の劣化が気がかりだ。
いかんすべきか。
就活のこと考えてたら心拍数上がってないのに
すごくドキドキしてきた
「人間の情報化・データ化」。
例えばツイッターとか。
容易に構成できて、容易に切れる。
物的関係性からの解放。
「人並み」が不可能な血。

「元号を廃止せよ!非嫡出子差別を廃止せよ!夫婦同姓を廃止せよ!結婚制度を廃止せよ!」


渋谷郵便局における恒例の風物詩に触れた。

人非人

2010年2月25日 日常
つくづく思うに、
やっぱり自分は他人(含家族)とともに生活することはできない。
性質上不可能。
他人と長期間一緒に過ごすのは無理。
何をしてしまうかわかったものではない。
強い自己承認欲求を持つ人には2種類あると思う。
1つめは、その人自身が自らを承認できていない場合で、
2つめは、その人自身が自らを承認しすぎている場合だ。
アダルトチルドレンはどうやら前者らしい。
が、
そんなに簡単に前者と後者を分けられるものなんだろうか、
個人的な感覚として甚だ疑問である。

ES地獄

2010年2月23日 日常
締切間近のESが多すぎてやばいけど
めんどくささが神。
グヤムくやむ。
なんかこのまま全部ES出さずに
終えてしまいたいくらいだわ。
就職はしてもいいけど
就活は面倒、の巻。
前から楽しみにしてたI先生の最終講義

この1年関わってきたサークルの「追いコン」

高校のクラスの卒業旅行

これが正になるや負になるや。
民主主義やら古典的な経済学やらの前提は?
一次面接で落ちる奴とか人間としてどうかと。
薄々感付いてはいたが親に言われて自信から確信に。

一次面接で落ちる者は人間として失格である。
私は一次面接で落ちた。
ゆえに私は人間として失格である。

いわゆる三段論法。
話し方とか表情なんて今更どうしようもないだろ。
やれやれ、早く死なねえかな
そろそろエントリーシートを書きまくらないと、
あるいは真剣に各企業について調べないとまずい
ということに気付いた。

説明会に出るだけが就活ではない、っていうあれね。
家に籠もって
1.パンフやHP読み漁る
2.ES書く
3.積ん読を消化する
が必要。

追記。今後的メモ。頭の整理。
・I先生の退官講義の時間と場所がわからん。HPにも今のところ案内なし。
・午前十時の映画祭
・パレード
・ソラニン
・SPI、WEBテスト対策
・経済学、経営学(検定も)、金融。来年度は経済学部生みたいになる案も。
・TOEFL
・スペ語の会
・追加的OB訪問。そのためにも早めにES。
要は、
社会のone of themとして、埋没しながら生きていくのが気に食わないというわけである。
それが所謂「普通」なのだろうが、
これまでの人生についてよくよく考えてみると、
本能の赴くまま「勝ち抜いていく」という行為によってこそ
自己の存在を確認・肯定してきた自分にとっては、
おこがましくもこの埋没が耐え難い。
なぜなら、
「ありきたりのもの=他より特段秀でた部分がないもの=代替可能なもの」
として生きることは、
自らの存在を自分自身でさえ感じることができないからである。

ここにきて気付いたことが一点。
それは、結局、少なくとも私がこの「自己存在の希薄さ」を解消するには、
私が何らかの形で誰かしらにとっての「代替不可能なもの」になるしかない
ということである。
M准教授は「労働にすべての力を注ぎ込む“労働信仰の魔法”にかかっている。労働を安易に希望や人間性と結び付けて語ること、それを原動力として人間や社会を動かそうとすることに危険はないのか」とこの結果に警戒感を示す。
 働いて得たお金でおいしいお酒を飲みたいとか、夏休みに海外旅行に行きたいという目的自体が、働くことに没入する中で次第に見失われているのではないか。M准教授は「日本は過労死や過労自殺など、働くことの弊害が最も深刻な形で現れている。労働に希望を見いだすことは現状を後押しする危険性を持っている」と警告している。(MSN産経ニュース10/2/14より引用)


私は、人生の進路決定は、「逆算」でしてもらわなければいけないと思っている。つまり、最終的にどんな職業に就いてどんな人生を送りたいかを決め、そのためにはどういう手段をとるべきかを決めるのである。
(中略)
つまり大学院は明瞭な目的を持った人がその目的達成のために利用するところであって、アマチュアのお勉強愛好家が集まるところではない(もう少ししたい、というくらいなら、なぜ学部四年間でもっと目一杯勉強しなかったのか)。(池田真朗『スタートライン債権法』より引用)


(テストは終わったものの、まるで開放感がない。これはどう考えても就活のせい)
私が大学3年間、何事をも為さなかったということは今までにも度々述べてきたが、
実際のところ、そこまで深い後悔に襲われていたわけではなかった。
しかし今改めて考えると(いや、考えるまでもなく感じることなのだが)、
これは非常に罪深く、時間の浪費だったのではないか、ということである。
私は大学に入って以降、これまでの「学歴神話」を打ち破るべく、
あえて役にも立たないことばかりやってきた節があるし、
とにかく「専門」なる単語から逃げ、わかっていながら「器用貧乏」を追求していた。
実際、友人などに指摘されても何とも思わなかったし、
むしろ究極の「器用貧乏」になってやろうくらいの気持ちだった。
それが当時の私の浅はかで幼稚な考えだったのである。
「大学に入ってまで勉強か」「大学に入ってまでテストの順位か」
「プライドの為に司法試験か、官僚か」などと
考えていたのである。
実に無思慮。
そして結局成れの果ては「肩書き」に甘んじたでくの棒であり、
図体だけはでかくて何の効率的機能も果たさない、
おかしな器用貧乏の機械になっていたのだ。
私は2年前の自分に言いたい。
残念ながらおまえの見ている世界は角度がおかしい。おとなしく勉強に専念して
精進したまえ、と。

人に胸を張れる実績がなくて何の生きる意味があろうか。
既に手遅れである。
「肩書き」だけが良くったって、牛後であれば掃いて捨てるほどいるのだから。
確かに勉強していればその後が安泰であるだなんて考えは時代錯誤であるかもしれない。
しかし結局私は私が今まで通ってきた価値観から逸脱するフリはできても、
真の意味で振り切ってしまうことはついにできなかった。
友人らは実に優秀だ。
そして私は本当は単なる怠け者に過ぎなかった。
ただ今までの私は、怠け者こそ勝ちだ、と大いなる勘違いをしていたのである。
(このようなことをグダグダここに吐き出したところで全く生産的でないことは百も承知)
どんな人間になりたいか、ということを全く考えなかったわけではなかったが、
根本的に方向性を間違えていたのである。
いや、絶対的な価値など存在しないという立場から言えば、
「単に気が変わった」とも見なせるわけだが、
せめてもっと無難な道を歩んでおくべきではなかっただろうか。
例えば、
いろいろな言語、いろいろな授業に手を出すのではなく、
ある程度「選択と集中」を行うべきであったし、
サークルだの何だのといったものどもも、
結局のところ大した意義はなかったのではないかとさえ思えてくる。
(もっとも、エントリーシートを書くという意味においては重宝しているが、
就職なんてもはや私の将来的理想となる人格からは基本的に遠い)
とにかく今まで他人より秀でることをこそ是としていただけに、
わざわざ自ら比較軸の存在しないところに飛び出していったのは誤りであった。
参加者1人中1番ということには何の価値もない。
参加者多数の中で勝つことにこそ価値がある。
なぜなら参加者が多数である物事に、多数の参加者が集まるのは、
その物事に関わることが有用であると一般的に考えられているからで、
他人と大幅に異なるということは、すなわち有用でない可能性が非常に大きいのである。
(仮に有用であったとしてもコストがかかるともいえる。
しかしだいたいハタチそこそこの人間が新たな有用ジャンルを見つけられるわけがない。)
にもかかわらず、
大学に入ってから「自由」の名の下に暴挙を為し、
自らレールを外れ、うまくレールに乗っている人間を影であざ笑い、
「お勉強ばかりしていたってお金は稼げないよ」
などと、それこそ本当に卑しい考えばかりしていたのである。
実に短絡的。
要するに、やはり熟慮に欠けていたのである。
日本でn番(nは小さいほどいい)になりたいのならば、
そしてその上で世界で勝負したいのならば、
自分の勝てるフィールドに持ち込むべきであったし、
今となってはそんなフィールドなど、どこにもないのであった。
後悔先に立たず。
大学2年生のときは新入生に対して偉そうなことを言っていたものである。
「自分が本当にどうなりたいかを考えたうえでアルバイトとかした方がいいよ、
時間の無駄だから。」
これを一番わかっていなかった、実践できていなかったのは、
紛れもなくこの私なのである。
滑稽ささえ覚える。
自分自身を過大評価するつもりは毛頭ないが、
それにしても能力も時間も無駄遣いしてきた。
なぜもっと自分を高める「正しい方法」に向かわなかったのか。
いくつものサークルやアルバイトに手を出していい気になっていた自分は
本当に馬鹿だったとしか言いようがない。
以前こんなことを考えたことがある。
とある説明会でくだらない質問をする学生を見て
「自分だったら恥ずかしくてこんな真似はできない。
家に帰って自分がこんなにも恥ずかしいことをしてしまったことに気付いたら、
紙に『死にたい』って100回は書くだろうね」
今はまさにそのレベル。
これまでの3年間は恥が偉そうに服着て歩いてたんですよ。
「何がエリートだ、何が実学だ」などと叫びながら、
恥が衆目に晒されながら、その悪臭に皆が眉を顰めているのにも気付かず、
下品な笑い声を上げながら、銀杏並木を闊歩していたんです。
あまりの手遅れっぷりにもはやどうしようもない。
私は私を肯定しえない。
否定によって初めて進歩が生まれるなどということも言えない。
個人には寿命があるし、就活だってそれ自体が期限の塊のようなものなのだから。
せめて学内表彰とか目指すべきだったんじゃないか。
昔であれば、
「自由な学生生活を勉強ばかりに費やすとか不毛」
だなんて思ったんだろうが、今ではむしろ、
「勉強もせずに自由を語り、何事をも為さなかったとか不毛!つうかむしろ勉強しながらでも学生生活楽しめるっしょ。それができないとかあんたどんだけ要領悪いのよ、ねえ?」
である。



メモ
ミッシェル・ガン・エレファント “THEE MOVIE” -LAST HEAVEN 031011-
何社エントリーシート出すべきか悩みどころ。
どうせ面接受けられる会社数は限られるわけだし、
全然興味ないところに行ってもなあという。

テストがある意味現実逃避の役割を果たしていたことに気付く。

(内定がもらえない的な意味ではなく)人生終了判定まで残り期間僅か。
「個人の非代替性」についてのお話はまた機会があれば。
「や さんは、
限りなく明度の高い赤色にいろどられた希望
と、
限りなく明度の低い緑色にしずんでいる絶望
からできています。

や さんは、
先入観にまみれた制度からの解放に対する欲望

先入観にまみれた制度への執着に対する欲望
からできています。」

といったことは、一見ありえないとも感じられるが、
こういった対立的な欲求というものは
むしろ相互作用によって互いに強められていると言ってよい。

ある命題に対する真偽だって、「排中律、何するものぞ」、と。
同じクラスの友人らは本当に優秀だし、
何かと助力してくれて本当に頭が下がる。
こんな環境なかなかないということに、
3年目も終わりを迎えようという今更になって気付いた。
気付くのが卒業後じゃなくて本当によかった。
間に合うのか・・・?
全然第一希望でも何でもないところでも落ちたらそれなりに悔しいものですね。
別の会社ですが、友人が難関を今のところ突破しており、
その喜びや周囲の祝福に対して普通にイラッとしてしまったのが
我ながら意外です。
いかにも不寛容。
いけないいけない。
で、今日はかなり志望度がトップクラスのところのエントリーシートを
そろそろ書き上げねばならず、帰宅後やろうと思っていたのですが、
帰宅が割と遅くなったのと、その他の事情によって
もう日付を超えてしまいました。
正直眠いです。今日は一応やめにしておこうと思います。
明日練る。
つうか時間ないな・・・・・・

以上、いつになくフツーの日記調。

< 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 >

 
や

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索