バイト柄、小学生に読ませる文章を読むことが多いのだが、
小説の類がしばしば22才をして感動せしめるものである一方、
論説の類に関してはしばしば小学生には有害とさえ思えるような
奇怪な意見・論理を呈していることがある。
別段思想統制を敷くべきだなどと考えているわけでなく、
思想・信条の自由はさらにも言わないものの、
今どき平気で時代遅れの「環境問題」だとか「日本語の美しさ」
だとかを厭と言うほど繰り返し読まされる小学生の心情はいかほどのものか。
もっともこういった題材を否定しているわけではなく、
より最近の内容に更新すればいいのに、ということである。
不要と思しき古臭い観念が固定観念化して次代に引き継がれることに対する違和感である。
例えば山口某(内容からして10年ほど前のものかと思ったが、驚くべきことに2006年。氏は年をとって脳みその更新が止まったか)。
日本語のなんとやらという文章の抜粋を読んでみたところ、
「世界の言語が一元化するのはまずい。いろんな言語があって競争するから世界は発展する。言語が一元化された世界に発展はない。日本語を守るべし、嗚呼美しき日本語!」
概ねこのようにあった。イデオロギーありきで論を無理やり進めているようで
(憲法学者宮沢俊義によれば、法学の世界には科学学説と解釈学説というものがあり、
前者は文理等から演繹的に学説を導いていくことであるのに対し、
後者は個人的信条等に基づく結論に到達するように論を構築することであるそうだ)、
いろいろ破綻していると言わざるを得ないのだが、
どうもこの本で何かエッセイの賞をとったらしいのである。
確かに抜き出しを読んだにすぎないとの批判は免れないであろうが、
こういった文章を、大学教授の肩書きを借り、I新書の権威を借りて、
恥も外聞もなく書き晒し、何も知らない小学生や一般読者を納得させ、
場合によっては教化してしまうことに大変違和感をおぼえる。
情操教育とやらがこんなのでいいんだろうか。これがいわゆる社会化か?
言語ついでに言うと、日本語を英語との対比のみを通じて
「とても異なっている!特殊ですごい!」などと論ずるのも
無駄な欧米中心主義を醸成するものだと思う。
一方前者、すなわち小説は素晴らしく、自らの小学生時代における読書不足
(と言いつつズッコケ三人組だけは徹底的に読んでいた)
を勿体なく思うと同時に、果たして幼稚な10才前後の自分が
同様の感動を得られたか疑問に思ったりもする。
ただ、思うに、児童文学のすごいところは、簡単な状況設定、平易な文章で以て、
未だ感情が複雑な分化を遂げていないとされる年少者に対して
その心情を動かさんとする点である。
大人に対する文章は多彩な背景、場合によっては衒学的な語彙を用いて構築されるため、
ある意味(ある意味、である)けむに巻くことにも近かろう。
したがって大人小説は児童文学に対して書きやすいというか、そもそも書き手はもはや「大人」なのである。
それに対し、児童の感情は未分化であるがゆえ、それなりに根源的で、
児童文学がこれに対して平易な語彙で直接的に突っついてくるものであるせいで、
22才が読んでも「ははー」となるのに違いない。
ところで2日前から運動を始めた。バットの素振りなら自分でもできる。
早速マメもつぶれた。今日は事情により出来ない。
継続は力なり。
小説の類がしばしば22才をして感動せしめるものである一方、
論説の類に関してはしばしば小学生には有害とさえ思えるような
奇怪な意見・論理を呈していることがある。
別段思想統制を敷くべきだなどと考えているわけでなく、
思想・信条の自由はさらにも言わないものの、
今どき平気で時代遅れの「環境問題」だとか「日本語の美しさ」
だとかを厭と言うほど繰り返し読まされる小学生の心情はいかほどのものか。
もっともこういった題材を否定しているわけではなく、
より最近の内容に更新すればいいのに、ということである。
不要と思しき古臭い観念が固定観念化して次代に引き継がれることに対する違和感である。
例えば山口某(内容からして10年ほど前のものかと思ったが、驚くべきことに2006年。氏は年をとって脳みその更新が止まったか)。
日本語のなんとやらという文章の抜粋を読んでみたところ、
「世界の言語が一元化するのはまずい。いろんな言語があって競争するから世界は発展する。言語が一元化された世界に発展はない。日本語を守るべし、嗚呼美しき日本語!」
概ねこのようにあった。イデオロギーありきで論を無理やり進めているようで
(憲法学者宮沢俊義によれば、法学の世界には科学学説と解釈学説というものがあり、
前者は文理等から演繹的に学説を導いていくことであるのに対し、
後者は個人的信条等に基づく結論に到達するように論を構築することであるそうだ)、
いろいろ破綻していると言わざるを得ないのだが、
どうもこの本で何かエッセイの賞をとったらしいのである。
確かに抜き出しを読んだにすぎないとの批判は免れないであろうが、
こういった文章を、大学教授の肩書きを借り、I新書の権威を借りて、
恥も外聞もなく書き晒し、何も知らない小学生や一般読者を納得させ、
場合によっては教化してしまうことに大変違和感をおぼえる。
情操教育とやらがこんなのでいいんだろうか。これがいわゆる社会化か?
言語ついでに言うと、日本語を英語との対比のみを通じて
「とても異なっている!特殊ですごい!」などと論ずるのも
無駄な欧米中心主義を醸成するものだと思う。
一方前者、すなわち小説は素晴らしく、自らの小学生時代における読書不足
(と言いつつズッコケ三人組だけは徹底的に読んでいた)
を勿体なく思うと同時に、果たして幼稚な10才前後の自分が
同様の感動を得られたか疑問に思ったりもする。
ただ、思うに、児童文学のすごいところは、簡単な状況設定、平易な文章で以て、
未だ感情が複雑な分化を遂げていないとされる年少者に対して
その心情を動かさんとする点である。
大人に対する文章は多彩な背景、場合によっては衒学的な語彙を用いて構築されるため、
ある意味(ある意味、である)けむに巻くことにも近かろう。
したがって大人小説は児童文学に対して書きやすいというか、そもそも書き手はもはや「大人」なのである。
それに対し、児童の感情は未分化であるがゆえ、それなりに根源的で、
児童文学がこれに対して平易な語彙で直接的に突っついてくるものであるせいで、
22才が読んでも「ははー」となるのに違いない。
ところで2日前から運動を始めた。バットの素振りなら自分でもできる。
早速マメもつぶれた。今日は事情により出来ない。
継続は力なり。
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