要は、
社会のone of themとして、埋没しながら生きていくのが気に食わないというわけである。
それが所謂「普通」なのだろうが、
これまでの人生についてよくよく考えてみると、
本能の赴くまま「勝ち抜いていく」という行為によってこそ
自己の存在を確認・肯定してきた自分にとっては、
おこがましくもこの埋没が耐え難い。
なぜなら、
「ありきたりのもの=他より特段秀でた部分がないもの=代替可能なもの」
として生きることは、
自らの存在を自分自身でさえ感じることができないからである。

ここにきて気付いたことが一点。
それは、結局、少なくとも私がこの「自己存在の希薄さ」を解消するには、
私が何らかの形で誰かしらにとっての「代替不可能なもの」になるしかない
ということである。

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や

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