M准教授は「労働にすべての力を注ぎ込む“労働信仰の魔法”にかかっている。労働を安易に希望や人間性と結び付けて語ること、それを原動力として人間や社会を動かそうとすることに危険はないのか」とこの結果に警戒感を示す。
 働いて得たお金でおいしいお酒を飲みたいとか、夏休みに海外旅行に行きたいという目的自体が、働くことに没入する中で次第に見失われているのではないか。M准教授は「日本は過労死や過労自殺など、働くことの弊害が最も深刻な形で現れている。労働に希望を見いだすことは現状を後押しする危険性を持っている」と警告している。(MSN産経ニュース10/2/14より引用)


私は、人生の進路決定は、「逆算」でしてもらわなければいけないと思っている。つまり、最終的にどんな職業に就いてどんな人生を送りたいかを決め、そのためにはどういう手段をとるべきかを決めるのである。
(中略)
つまり大学院は明瞭な目的を持った人がその目的達成のために利用するところであって、アマチュアのお勉強愛好家が集まるところではない(もう少ししたい、というくらいなら、なぜ学部四年間でもっと目一杯勉強しなかったのか)。(池田真朗『スタートライン債権法』より引用)


(テストは終わったものの、まるで開放感がない。これはどう考えても就活のせい)
私が大学3年間、何事をも為さなかったということは今までにも度々述べてきたが、
実際のところ、そこまで深い後悔に襲われていたわけではなかった。
しかし今改めて考えると(いや、考えるまでもなく感じることなのだが)、
これは非常に罪深く、時間の浪費だったのではないか、ということである。
私は大学に入って以降、これまでの「学歴神話」を打ち破るべく、
あえて役にも立たないことばかりやってきた節があるし、
とにかく「専門」なる単語から逃げ、わかっていながら「器用貧乏」を追求していた。
実際、友人などに指摘されても何とも思わなかったし、
むしろ究極の「器用貧乏」になってやろうくらいの気持ちだった。
それが当時の私の浅はかで幼稚な考えだったのである。
「大学に入ってまで勉強か」「大学に入ってまでテストの順位か」
「プライドの為に司法試験か、官僚か」などと
考えていたのである。
実に無思慮。
そして結局成れの果ては「肩書き」に甘んじたでくの棒であり、
図体だけはでかくて何の効率的機能も果たさない、
おかしな器用貧乏の機械になっていたのだ。
私は2年前の自分に言いたい。
残念ながらおまえの見ている世界は角度がおかしい。おとなしく勉強に専念して
精進したまえ、と。

人に胸を張れる実績がなくて何の生きる意味があろうか。
既に手遅れである。
「肩書き」だけが良くったって、牛後であれば掃いて捨てるほどいるのだから。
確かに勉強していればその後が安泰であるだなんて考えは時代錯誤であるかもしれない。
しかし結局私は私が今まで通ってきた価値観から逸脱するフリはできても、
真の意味で振り切ってしまうことはついにできなかった。
友人らは実に優秀だ。
そして私は本当は単なる怠け者に過ぎなかった。
ただ今までの私は、怠け者こそ勝ちだ、と大いなる勘違いをしていたのである。
(このようなことをグダグダここに吐き出したところで全く生産的でないことは百も承知)
どんな人間になりたいか、ということを全く考えなかったわけではなかったが、
根本的に方向性を間違えていたのである。
いや、絶対的な価値など存在しないという立場から言えば、
「単に気が変わった」とも見なせるわけだが、
せめてもっと無難な道を歩んでおくべきではなかっただろうか。
例えば、
いろいろな言語、いろいろな授業に手を出すのではなく、
ある程度「選択と集中」を行うべきであったし、
サークルだの何だのといったものどもも、
結局のところ大した意義はなかったのではないかとさえ思えてくる。
(もっとも、エントリーシートを書くという意味においては重宝しているが、
就職なんてもはや私の将来的理想となる人格からは基本的に遠い)
とにかく今まで他人より秀でることをこそ是としていただけに、
わざわざ自ら比較軸の存在しないところに飛び出していったのは誤りであった。
参加者1人中1番ということには何の価値もない。
参加者多数の中で勝つことにこそ価値がある。
なぜなら参加者が多数である物事に、多数の参加者が集まるのは、
その物事に関わることが有用であると一般的に考えられているからで、
他人と大幅に異なるということは、すなわち有用でない可能性が非常に大きいのである。
(仮に有用であったとしてもコストがかかるともいえる。
しかしだいたいハタチそこそこの人間が新たな有用ジャンルを見つけられるわけがない。)
にもかかわらず、
大学に入ってから「自由」の名の下に暴挙を為し、
自らレールを外れ、うまくレールに乗っている人間を影であざ笑い、
「お勉強ばかりしていたってお金は稼げないよ」
などと、それこそ本当に卑しい考えばかりしていたのである。
実に短絡的。
要するに、やはり熟慮に欠けていたのである。
日本でn番(nは小さいほどいい)になりたいのならば、
そしてその上で世界で勝負したいのならば、
自分の勝てるフィールドに持ち込むべきであったし、
今となってはそんなフィールドなど、どこにもないのであった。
後悔先に立たず。
大学2年生のときは新入生に対して偉そうなことを言っていたものである。
「自分が本当にどうなりたいかを考えたうえでアルバイトとかした方がいいよ、
時間の無駄だから。」
これを一番わかっていなかった、実践できていなかったのは、
紛れもなくこの私なのである。
滑稽ささえ覚える。
自分自身を過大評価するつもりは毛頭ないが、
それにしても能力も時間も無駄遣いしてきた。
なぜもっと自分を高める「正しい方法」に向かわなかったのか。
いくつものサークルやアルバイトに手を出していい気になっていた自分は
本当に馬鹿だったとしか言いようがない。
以前こんなことを考えたことがある。
とある説明会でくだらない質問をする学生を見て
「自分だったら恥ずかしくてこんな真似はできない。
家に帰って自分がこんなにも恥ずかしいことをしてしまったことに気付いたら、
紙に『死にたい』って100回は書くだろうね」
今はまさにそのレベル。
これまでの3年間は恥が偉そうに服着て歩いてたんですよ。
「何がエリートだ、何が実学だ」などと叫びながら、
恥が衆目に晒されながら、その悪臭に皆が眉を顰めているのにも気付かず、
下品な笑い声を上げながら、銀杏並木を闊歩していたんです。
あまりの手遅れっぷりにもはやどうしようもない。
私は私を肯定しえない。
否定によって初めて進歩が生まれるなどということも言えない。
個人には寿命があるし、就活だってそれ自体が期限の塊のようなものなのだから。
せめて学内表彰とか目指すべきだったんじゃないか。
昔であれば、
「自由な学生生活を勉強ばかりに費やすとか不毛」
だなんて思ったんだろうが、今ではむしろ、
「勉強もせずに自由を語り、何事をも為さなかったとか不毛!つうかむしろ勉強しながらでも学生生活楽しめるっしょ。それができないとかあんたどんだけ要領悪いのよ、ねえ?」
である。



メモ
ミッシェル・ガン・エレファント “THEE MOVIE” -LAST HEAVEN 031011-

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