すべてのクレタ人は。
2007年2月28日 日常 コメント (3)「成功したと思ったときは大体の場合失敗している。
失敗したと思ったときは大体の場合成功している。」
父親がたまに言う言葉です。
僕の経験上からもこのことはなかなか的を射ているのではないかと思いますが、
あー失敗した!→ということは成功しているかもなあ
→そんなら成功じゃん!→ということは失敗しているかもなあ
→あー失敗だ!→ん、ということは成功(以下略)
腰を痛めた。
受験終わったら運動だ!とかそういうレベルに体がないのである。
結構無気力。辛うじて本を読んでいる。
後期対策はまだやっていない。
論文なんて直前にやったところでどうなるものでもないし。
ドラゴン桜は嘘つきだ。いや、もともと信用してはいないが、
あまり簡単簡単言って知らない人を煽るのはやっぱりねえ。
受験が終わったその日、ある友人と焼肉を食べに行った。
ははー、こうやって官僚主義に洗脳されるのか、と思った。
そんな彼は昔はテレビ局のプロデューサーになるみたいなことを
言っていた覚えがあるが、このままでは末は官僚だろう。
つまらないものだと思った。彼の目は開かれていないどころか、
ますます閉じていっているようである。これをもって僕は、
「またメクラの子が川で溺れて死んだか」と思ったのだ。
「あったかい(あったけえ)」と「盲目(メクラ )」は
ほぼ同義であるというか、重なりが見られる。
(念のため言っておくが、「メクラ」は別に盲目の
方を蔑んで言っているのではない。)
特権階級の人間は得てして
自らの特権的地位を理解していないようだ。
これはある意味「常識知らず」と言って良いだろう。
常識は2〜3種類に分けられるように思う。
一は知識的・時事的な事柄であり、
一は倫理的・道義的な事柄であり、
一は視野に関する事柄である。
ここで言う「常識」は最後に挙げた「視野に関する事柄」
であり、もちろんそれはライオンよりシマウマの方が、といった
類のものではないのは言うまでもなかろうが、
特権階級の人間は、少なくとも僕が今まで出会ってきたような
その種の人間は、大抵これが欠けているのである。
これをもって僕は彼らを、今度は蔑む意味を含んで「盲目」
などと呼んでいる。テレビのコメンテーターなどもしばしば
この範疇に入れてよい。マリーアントワネットと、程度の
差こそあれ、同類なのである。
一般意志を汲み取れるのが果たして本当に、
特権的地位のレールを進んできた者が多いような、
官僚でありえようか?
勿論自分だってまだまだ視野は狭いが、やはりこういうカタガタ
を見るにつけ、「盲目」だと思わずにはいられない。
彼らに罪悪感はない。なぜならそう感じる対象が身近にいないから。
自分とまるで違う暮らしをしている人間のことを
全くと言っていいほど知らないから。
逆に言えば、自分がこういう生まれなのは、
ある意味で悦ばしい事なのかもしれない。
しかしきっと自分もまだまだ知らないところで「奢っている」
面があるのだろうと思うと、やるせない気分になる。
「常識」とは何と特権的なものなのだろうか。
下層民はこの点に於いても搾取されているのではなかろうか。
今、ひとつ思い出したことがある。
以前とある友人、これもまた社会的特権をもつような家の出であるが、
その人に糾弾したことがある。
するとその人は、
「そういう家にもそういう家なりの辛い事はある」などとのたまう。
何とも贅沢な悩みをお持ちのようで、と僕は思ったが、
これ以上言っても収拾はつきそうになかったし疲れていたので
「そうなんだあ」と言って済ませておいた。
これが実態である。
なるほど、これが日本のイギリス化か、と。
ここまで言っておいて僕は自分の家のことを考える。
果たして彼らを糾弾する資格があるのだろうか、と。
数代遡れば確実にその資格はない。
或いは、家云々言っている僕は、まだまだ「近代」に
縛られた、古臭い人間なので御座いましょうか?
勿論今想定しているような「家」は戸主云々のそれでは
ありませんが。
やはり環境・育ちが人に与える影響は大きい。
かかることを以前かいつまんで自由英作で書いたら
結構高い評価がもらえた、が、本番で失敗しては
全く以て意味をなさない。
上に行けないのは残念だ。下のものが上のものを
糾弾する分は、大抵の場合「負け犬の遠吠え」と見なされる。
上のものを糾弾しうるのは、内部の上のもの自体でしかない。
失敗したと思ったときは大体の場合成功している。」
父親がたまに言う言葉です。
僕の経験上からもこのことはなかなか的を射ているのではないかと思いますが、
あー失敗した!→ということは成功しているかもなあ
→そんなら成功じゃん!→ということは失敗しているかもなあ
→あー失敗だ!→ん、ということは成功(以下略)
腰を痛めた。
受験終わったら運動だ!とかそういうレベルに体がないのである。
結構無気力。辛うじて本を読んでいる。
後期対策はまだやっていない。
論文なんて直前にやったところでどうなるものでもないし。
ドラゴン桜は嘘つきだ。いや、もともと信用してはいないが、
あまり簡単簡単言って知らない人を煽るのはやっぱりねえ。
受験が終わったその日、ある友人と焼肉を食べに行った。
ははー、こうやって官僚主義に洗脳されるのか、と思った。
そんな彼は昔はテレビ局のプロデューサーになるみたいなことを
言っていた覚えがあるが、このままでは末は官僚だろう。
つまらないものだと思った。彼の目は開かれていないどころか、
ますます閉じていっているようである。これをもって僕は、
「またメクラの子が川で溺れて死んだか」と思ったのだ。
「あったかい(あったけえ)」と「盲目(メクラ )」は
ほぼ同義であるというか、重なりが見られる。
(念のため言っておくが、「メクラ」は別に盲目の
方を蔑んで言っているのではない。)
特権階級の人間は得てして
自らの特権的地位を理解していないようだ。
これはある意味「常識知らず」と言って良いだろう。
常識は2〜3種類に分けられるように思う。
一は知識的・時事的な事柄であり、
一は倫理的・道義的な事柄であり、
一は視野に関する事柄である。
ここで言う「常識」は最後に挙げた「視野に関する事柄」
であり、もちろんそれはライオンよりシマウマの方が、といった
類のものではないのは言うまでもなかろうが、
特権階級の人間は、少なくとも僕が今まで出会ってきたような
その種の人間は、大抵これが欠けているのである。
これをもって僕は彼らを、今度は蔑む意味を含んで「盲目」
などと呼んでいる。テレビのコメンテーターなどもしばしば
この範疇に入れてよい。マリーアントワネットと、程度の
差こそあれ、同類なのである。
一般意志を汲み取れるのが果たして本当に、
特権的地位のレールを進んできた者が多いような、
官僚でありえようか?
勿論自分だってまだまだ視野は狭いが、やはりこういうカタガタ
を見るにつけ、「盲目」だと思わずにはいられない。
彼らに罪悪感はない。なぜならそう感じる対象が身近にいないから。
自分とまるで違う暮らしをしている人間のことを
全くと言っていいほど知らないから。
逆に言えば、自分がこういう生まれなのは、
ある意味で悦ばしい事なのかもしれない。
しかしきっと自分もまだまだ知らないところで「奢っている」
面があるのだろうと思うと、やるせない気分になる。
「常識」とは何と特権的なものなのだろうか。
下層民はこの点に於いても搾取されているのではなかろうか。
今、ひとつ思い出したことがある。
以前とある友人、これもまた社会的特権をもつような家の出であるが、
その人に糾弾したことがある。
するとその人は、
「そういう家にもそういう家なりの辛い事はある」などとのたまう。
何とも贅沢な悩みをお持ちのようで、と僕は思ったが、
これ以上言っても収拾はつきそうになかったし疲れていたので
「そうなんだあ」と言って済ませておいた。
これが実態である。
なるほど、これが日本のイギリス化か、と。
ここまで言っておいて僕は自分の家のことを考える。
果たして彼らを糾弾する資格があるのだろうか、と。
数代遡れば確実にその資格はない。
或いは、家云々言っている僕は、まだまだ「近代」に
縛られた、古臭い人間なので御座いましょうか?
勿論今想定しているような「家」は戸主云々のそれでは
ありませんが。
やはり環境・育ちが人に与える影響は大きい。
かかることを以前かいつまんで自由英作で書いたら
結構高い評価がもらえた、が、本番で失敗しては
全く以て意味をなさない。
上に行けないのは残念だ。下のものが上のものを
糾弾する分は、大抵の場合「負け犬の遠吠え」と見なされる。
上のものを糾弾しうるのは、内部の上のもの自体でしかない。
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