ぼくのとうさんのくれた、まっ黒こげのピザ。
2005年10月24日 日常ふろはぼくのさいてきな「思考と空想の場」。
きのうもふろでかんがえた。
いつからぼくは
数字をじゅんじょよくかぞえられるようになったのだろう?
親とゆぶねで「1、2、3、・・・」
とかぞえていたのは覚えている。
けれどもいつ、どのタイミングで
この人間としての妙技をしゅうとくしたのかはおぼえていない。
いまではすうがくだってやっているというのに、
ほんの15ねんほど前はすうじをじゅんじょよくかぞえる
のができたかできないか。
どうしてぼくは「数字・数」という概念をまなべたのだろうか?
「時間」の感覚もまたしかり。
この考えはことしの文化祭で「オイル」をみて。
文化祭か・・・・・
(きょうはあまりぼくじしんが「詰まった文字」=「漢字」を
みたくないので、ありがたくもこのぶんしょうをよんでくれた
人は、さぞかしみづらくおもっていらっしゃることでしょう)
この世は常に悪いほうこうにむかっているのは
まちがいなさそうな気がいたします。
ぼくのにんげんかんけいにしても
にほんのぐんびにしても
おなじくざいせいにしても
あるいはかがくのはってんにしても
こういうほうこうにしぜんにすすんでいくからおそろしいというものです
ぼくはなにもじぶんからひとにきらわれたいわけではないのです
なにがいけなかったのでしょうか?
「これがわからないうちはいっしょうおまえはきらわれものさ」
という声がきこえてきそうです。
こわいこわい
よけいな妄想がしばしばひとの集中力のさまたげになるのは
周知の通りでありますが、
それを意図的にさけられればはなから苦労などというものは
そんざいしないのではないでしょうか。
さるものひびにうとし、か。
なにもじぶんはすきでさっているわけではなく。
しかしゆうじんというものはよくもわるくも
おおいにえいきょうりょくをもつものです。
高校に入学していらいばくはつてきにゆうじんのかずがふえた
せいか、それとも「高校」というもののとくしつのせいか、
いま(さら)、それをつよくかんじるのです。
こんねんどのもくひょうはどくしょでした。
しばらくていたいしていましたが、
また、ちょっとづつよんでいます。
しあわせです
むかしからぼくはひねくれたこどもだったようにおもいます。
くわえて、しばしばたんきをおこしていました。
いまでもほんしつてきにはかわっていませんが。
ようちえんのとき、クラスメイトをけりました。
とうぜんせんせいがあらわれます。
「足は蹴るためにあるのんとちゃうんやで。けるんやったら
足きってまうで」
サッカーボールはどうなんだといいかえそうかとおもった。
ことのてんまつはあいにくきおくしていない。
なぜかないていたようなきもする。
せんせいのきはくにおされたか。
いずれにせよきおくとはじぶんにつごうのいいように
ねじまげられていくのがきほんでしょうから、
いまのぼくのはなしもはんぶんフィクションだと
かんがえるのがだとうかもしれません。
もうひとつおもいで(?)を。
ぼくは、じぶんでいうのもなんですが、
しょうがっこうのときはよくべんきょうができました。
けれども水泳がひじょうににがてでした。
おさないころから髪をあらうときでさえ、
みずをこわがっていたからです。
あれは2ねんせいのときだったかとおもいます。
となりのおんなのこがいいました
(いまでもなぜか名前をきおくしている)
「(や)くんっておよげへんし、べんきょうしかできへんな」
なぐった。
ないた。
せんせいがきた。
なぜかぼくだけおこられた。
たしかにしょうがくせいはひとのきもちがようわからんから
へいきでひとのきにしていることをくちにするけれども
ぼくだけをしかるのはあんまりじゃあないか。
しかし、このことばはいまのぼくのなかでもしばしば反芻され、
あるしゅいましめとなっている。
ちなみにむかしよりは絶対的・相対的に運動はできるようになってるよ。
ぶかつもたしょうはうんどうぶだったしね。
かぜをひきました。
はなものどもこうげきされています。
東京大学物語はよんでてつらいてんかいになること
がおおくなってきました。
げんきだすためにまんがよむのにこれじゃあぎゃくこうか。
あしたは中間テストの4日目です。
いまは23時39分です。
いいかげんべんきょうしてはやくねないと風邪がわるくなりそうです。
あしたはほんをよめるじかんはなさそうです。
それでもじぶんでつくればいいのかな?
いるといないとじゃおおちがい。
ほしいともおもうが、えてはいけないともおもう。
じぶんがそれにあたいしないから。
にんげんはほんとうにそれをしぜんのよっきゅうとして
ほっするのか?
そんなこともないようにおもわれる。
文化がかってにつくりだしたかちかんではないか?
うたがうばかりできりはない。
ぼくの1987ねん。
「自己愛」が行動のげんどうりょくのこんぽんであるとしたら。
あしたもあさってもしあさってもまいにちまいにち
ストレスもなくフラストレイションもなく
後悔もなく
気分よく
楽しく楽しく
すごせればいいのに、
そんなものは所詮幻想にすぎず、
あるのは
よどんだ世界だけなのです。
みなさんしょうちのことでしょう。
けれどもぼくはばかだからいっこうになっとくできないのです。
きのうもふろでかんがえた。
いつからぼくは
数字をじゅんじょよくかぞえられるようになったのだろう?
親とゆぶねで「1、2、3、・・・」
とかぞえていたのは覚えている。
けれどもいつ、どのタイミングで
この人間としての妙技をしゅうとくしたのかはおぼえていない。
いまではすうがくだってやっているというのに、
ほんの15ねんほど前はすうじをじゅんじょよくかぞえる
のができたかできないか。
どうしてぼくは「数字・数」という概念をまなべたのだろうか?
「時間」の感覚もまたしかり。
この考えはことしの文化祭で「オイル」をみて。
文化祭か・・・・・
(きょうはあまりぼくじしんが「詰まった文字」=「漢字」を
みたくないので、ありがたくもこのぶんしょうをよんでくれた
人は、さぞかしみづらくおもっていらっしゃることでしょう)
この世は常に悪いほうこうにむかっているのは
まちがいなさそうな気がいたします。
ぼくのにんげんかんけいにしても
にほんのぐんびにしても
おなじくざいせいにしても
あるいはかがくのはってんにしても
こういうほうこうにしぜんにすすんでいくからおそろしいというものです
ぼくはなにもじぶんからひとにきらわれたいわけではないのです
なにがいけなかったのでしょうか?
「これがわからないうちはいっしょうおまえはきらわれものさ」
という声がきこえてきそうです。
こわいこわい
よけいな妄想がしばしばひとの集中力のさまたげになるのは
周知の通りでありますが、
それを意図的にさけられればはなから苦労などというものは
そんざいしないのではないでしょうか。
さるものひびにうとし、か。
なにもじぶんはすきでさっているわけではなく。
しかしゆうじんというものはよくもわるくも
おおいにえいきょうりょくをもつものです。
高校に入学していらいばくはつてきにゆうじんのかずがふえた
せいか、それとも「高校」というもののとくしつのせいか、
いま(さら)、それをつよくかんじるのです。
こんねんどのもくひょうはどくしょでした。
しばらくていたいしていましたが、
また、ちょっとづつよんでいます。
しあわせです
むかしからぼくはひねくれたこどもだったようにおもいます。
くわえて、しばしばたんきをおこしていました。
いまでもほんしつてきにはかわっていませんが。
ようちえんのとき、クラスメイトをけりました。
とうぜんせんせいがあらわれます。
「足は蹴るためにあるのんとちゃうんやで。けるんやったら
足きってまうで」
サッカーボールはどうなんだといいかえそうかとおもった。
ことのてんまつはあいにくきおくしていない。
なぜかないていたようなきもする。
せんせいのきはくにおされたか。
いずれにせよきおくとはじぶんにつごうのいいように
ねじまげられていくのがきほんでしょうから、
いまのぼくのはなしもはんぶんフィクションだと
かんがえるのがだとうかもしれません。
もうひとつおもいで(?)を。
ぼくは、じぶんでいうのもなんですが、
しょうがっこうのときはよくべんきょうができました。
けれども水泳がひじょうににがてでした。
おさないころから髪をあらうときでさえ、
みずをこわがっていたからです。
あれは2ねんせいのときだったかとおもいます。
となりのおんなのこがいいました
(いまでもなぜか名前をきおくしている)
「(や)くんっておよげへんし、べんきょうしかできへんな」
なぐった。
ないた。
せんせいがきた。
なぜかぼくだけおこられた。
たしかにしょうがくせいはひとのきもちがようわからんから
へいきでひとのきにしていることをくちにするけれども
ぼくだけをしかるのはあんまりじゃあないか。
しかし、このことばはいまのぼくのなかでもしばしば反芻され、
あるしゅいましめとなっている。
ちなみにむかしよりは絶対的・相対的に運動はできるようになってるよ。
ぶかつもたしょうはうんどうぶだったしね。
かぜをひきました。
はなものどもこうげきされています。
東京大学物語はよんでてつらいてんかいになること
がおおくなってきました。
げんきだすためにまんがよむのにこれじゃあぎゃくこうか。
あしたは中間テストの4日目です。
いまは23時39分です。
いいかげんべんきょうしてはやくねないと風邪がわるくなりそうです。
あしたはほんをよめるじかんはなさそうです。
それでもじぶんでつくればいいのかな?
いるといないとじゃおおちがい。
ほしいともおもうが、えてはいけないともおもう。
じぶんがそれにあたいしないから。
にんげんはほんとうにそれをしぜんのよっきゅうとして
ほっするのか?
そんなこともないようにおもわれる。
文化がかってにつくりだしたかちかんではないか?
うたがうばかりできりはない。
ぼくの1987ねん。
「自己愛」が行動のげんどうりょくのこんぽんであるとしたら。
あしたもあさってもしあさってもまいにちまいにち
ストレスもなくフラストレイションもなく
後悔もなく
気分よく
楽しく楽しく
すごせればいいのに、
そんなものは所詮幻想にすぎず、
あるのは
よどんだ世界だけなのです。
みなさんしょうちのことでしょう。
けれどもぼくはばかだからいっこうになっとくできないのです。
コメント