久しぶりに書ける、この爽快感。
2005年5月20日 日常僕はここにいろいろと書くことによって精神の安定を許していますが、
これは一体どういうことなのでしょうか?
先日塾にて、講師に頼まれて生徒全員がアンケートを書きました。
その先生は政治的、より詳しく言えば、民主主義的な考えを好み、
本来の授業をすっぽかし、休み時間も無視して本当に大事な事、
日本や民主主義のあるべき姿などを話してくださるわけですが、
やはり限度と言うものがある。さすがに終了時刻を大幅に遅らせるのは、いつも疲れている上に他にもやるべきことが山積しているこっちとしては勘弁してほしいものだ。
というわけで、意見としていろいろ書いたわけであります。
前述のような民主主義の話が好きだ、とか、終了時刻延長だけは
避けるようにして欲しい、とか。
書いた後思ったわけです、
「本当に自分はここに書いたようなことを思っていたのだろうか?」
実際、書いてしまった後は、すべての事がどうでもよくなってしまったのです。別に授業外のことに興味もなければ、授業時間にも頓着しない気分。
いつも人は何か考えをもったときには何か
もやもやー
と、朧げに感じていても、飽くまでそれは抽象的なものに過ぎません。
そして抽象的なものであるから、掴みようもないくらい体積が大きいのです。したがってそれをそのまま引っ張り出してしまうことは出来ません。
しかしその考えを紙の上に、或いはここでの僕のようにweb上に書き表すことによって状況は一変します。
(ここで注意すべきことは、言葉にして話す場合はまた別である、ということです。なぜなら筆記に比べ口述は微妙な指示語や身振り手振りを加えて「言葉」を補足することができるからです。)
どう変わるかと言うと、今までもやもやーっとしか捉えようのなかった
考えの抽象度が一気に下がるのです。
つまり、多元的だった意味合いが、辞書に定義されている「言葉」に画一化されていってしまうのです。
例えば、作文を書くときにはまずメモを作れ、とよく言うでしょう。
その原理なのです。
(ちなみに僕はここに書くことはいつも頭で「整理している気になっている」ものを打ち込んでいます。)
そして、
その「文字」は一息吹いただけで飛んでいってしまう紙片のような物です。
それゆえに引っ張り出せないように有機的に絡まれていた糸はいとも簡単にほどけ、ややもすればそれその物が自分とは別次元の存在に思われてしまうのでしょう。
塾での例も然り、ここでの発散もまた然り。
そこに奥行きを加えていくのが物書きの妙なのかもしれません。
そんな文章を読むのが特に僕は好きです。
読むと書くは当然別にして。
もうひとつ書きたいテーマがありましたが、また明日にしましょう。
明日も書ければ嬉しい。
今週はテストの時期だったのによく寝てしまった。
睡眠欲はうまくコントロールできません。
そして疎外感が消えることはありません。
夜はいつでも暗いのです。
朝はいつでも眠いのです。
疎外感が消えることは
ありません。
これは一体どういうことなのでしょうか?
先日塾にて、講師に頼まれて生徒全員がアンケートを書きました。
その先生は政治的、より詳しく言えば、民主主義的な考えを好み、
本来の授業をすっぽかし、休み時間も無視して本当に大事な事、
日本や民主主義のあるべき姿などを話してくださるわけですが、
やはり限度と言うものがある。さすがに終了時刻を大幅に遅らせるのは、いつも疲れている上に他にもやるべきことが山積しているこっちとしては勘弁してほしいものだ。
というわけで、意見としていろいろ書いたわけであります。
前述のような民主主義の話が好きだ、とか、終了時刻延長だけは
避けるようにして欲しい、とか。
書いた後思ったわけです、
「本当に自分はここに書いたようなことを思っていたのだろうか?」
実際、書いてしまった後は、すべての事がどうでもよくなってしまったのです。別に授業外のことに興味もなければ、授業時間にも頓着しない気分。
いつも人は何か考えをもったときには何か
もやもやー
と、朧げに感じていても、飽くまでそれは抽象的なものに過ぎません。
そして抽象的なものであるから、掴みようもないくらい体積が大きいのです。したがってそれをそのまま引っ張り出してしまうことは出来ません。
しかしその考えを紙の上に、或いはここでの僕のようにweb上に書き表すことによって状況は一変します。
(ここで注意すべきことは、言葉にして話す場合はまた別である、ということです。なぜなら筆記に比べ口述は微妙な指示語や身振り手振りを加えて「言葉」を補足することができるからです。)
どう変わるかと言うと、今までもやもやーっとしか捉えようのなかった
考えの抽象度が一気に下がるのです。
つまり、多元的だった意味合いが、辞書に定義されている「言葉」に画一化されていってしまうのです。
例えば、作文を書くときにはまずメモを作れ、とよく言うでしょう。
その原理なのです。
(ちなみに僕はここに書くことはいつも頭で「整理している気になっている」ものを打ち込んでいます。)
そして、
その「文字」は一息吹いただけで飛んでいってしまう紙片のような物です。
それゆえに引っ張り出せないように有機的に絡まれていた糸はいとも簡単にほどけ、ややもすればそれその物が自分とは別次元の存在に思われてしまうのでしょう。
塾での例も然り、ここでの発散もまた然り。
そこに奥行きを加えていくのが物書きの妙なのかもしれません。
そんな文章を読むのが特に僕は好きです。
読むと書くは当然別にして。
もうひとつ書きたいテーマがありましたが、また明日にしましょう。
明日も書ければ嬉しい。
今週はテストの時期だったのによく寝てしまった。
睡眠欲はうまくコントロールできません。
そして疎外感が消えることはありません。
夜はいつでも暗いのです。
朝はいつでも眠いのです。
疎外感が消えることは
ありません。
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